ウィル・ラーソン『エンジニアリング戦略の作り方』を読んで一番残ったのは、技術の話ではありませんでした。実装コストが高かった時代、そのコスト自体が雑な意思決定を止めるフィルターだった、という気づきです。AIでそのフィルターが外れた今、企業は以前より速く、そして気づきにくい形で間違えられるようになっています。本を起点に、AI導入・DX・事業開発において「何を解くのか」「何をやらないのか」「どこで小さく検証するのか」を決める力について考えてみます。
Section 01戦略の本を読んで、実装ではないところに引っかかった
ウィル・ラーソンの『エンジニアリング戦略の作り方』(オライリー・ジャパン、岩瀬義昌・岩瀬迪子訳)を読みました。エンジニアリング組織向けの本ですが、読み終えて残ったのは技術の話ではありませんでした。
本書はリチャード・ルメルトの『良い戦略、悪い戦略』を土台にしています。ルメルトは戦略の核を「診断・基本方針・行動」の三つで説明します。ラーソンはこれを実務の手順に展開し、戦略づくりを五つのステップに分けています。
社内外で同じ課題がどう扱われてきたかを調べる「探究」。解決策を考える前に、自分たちの課題を事実に基づいて明確にする「診断」。生のアイデアをいきなり全体に展開せず、小さく試しながら磨く「洗練」。診断への応答として、意思決定やトレードオフの判断基準を決める「方針策定」。そして、方針が組織で採用され続ける仕組みを整える「運用」。
読みながら考えていたのは、この五つのうちAI時代に重みが増すのはどれか、ということでした。私の答えは「診断」「洗練」「運用」の三つです。理由は、AIがこの三つを飛ばして先に進むことを、以前よりずっと簡単にしてしまったからです。
Section 02「作れない」ことが、間違いを止めていた
AI以前、システムや施策を実行するコストは高いものでした。開発には数か月と人員が要り、LPひとつ作るにも制作会社との往復があり、市場調査には外注費がかかりました。だから着手前に「本当にこれを作るべきか」「この施策をやるべきか」を考えざるを得なかった。稟議が通らない、予算が取れない、エンジニアが空いていない。そうした制約は面倒なものでしたが、結果として、詰め切れていない企画を止める役割を果たしていました。
高い実装コストそのものが、雑な意思決定を止める一種のフィルターだったわけです。
LayerXのnumashi氏が、2026年4月のnote記事「AIによってプロダクトマネジメントとMVPの重心が変わった話」で、同じことをプロダクト開発の文脈で指摘しています。「実装コストという制約そのものが、課題定義を鍛えるフィルターとして機能していました」という一文です。数週間かかっていた実装が数日や数時間で終わるようになり、この制約が消えた、と。
私はこの指摘を、プロダクト開発に限らず、企業経営とAI導入の全体に広げて読むべきだと考えています。いま生成AIによって安くなっているのは、システム開発だけではありません。LP制作、市場調査、記事制作、営業リストの作成、営業メール、データ分析、業務の自動化、プロトタイプ。「作る・調べる・実行する」のほぼ全域で、コストが急速に下がっています。
その結果、「本当にやるべきか」を考え切る前に、「とりあえずできてしまう」状況が増えました。以前は作れないから立ち止まれた。今は作れてしまうので、立ち止まる理由がない。作れることと作るべきことは別物なのに、作れてしまうと、その区別を意識する機会そのものが減っていきます。
Section 03企業は、以前より速く間違えられるようになった
ここで単純なモデルを置いてみます。
AIが上げるのは、右側の実行速度です。課題設定が正しければ、成果は速く大きくなります。課題設定が間違っていれば、間違った方向へ進む速度も上がります。AIは正しい方向に進む速度だけでなく、間違った方向に進む速度も上げる。この点が、AI導入の議論でいちばん語られていないところだと思っています。
実装コストが高かった時代は、課題設定が甘い企画は左下に留まり、着手前に止まっていました。AIが動かすのは横軸だけです。課題設定を誤ったまま速度だけが上がると、右下へ一直線に進み、しかも「作業時間が減った」という分かりやすい成果が出るぶん、気づくのが遅れます。縦軸を上げるのは実行力ではなく、診断です。
具体的に考えてみます。「営業生産性を上げたい」という会社があるとします。AI議事録、AI営業メール、AI提案資料、AIリサーチ、AIチャットボット。使えるものを一通り入れ、商談後の事務作業がずいぶん軽くなった。営業担当の残業も減った。導入は成功に見えます。
しかし、その会社の本当のボトルネックが「そもそもの商談数が足りない」ことだったらどうでしょうか。商談後の業務を50%効率化しても、商談の母数が変わらなければ、売上へのインパクトは限定的にとどまります。間違った問題を、ものすごく効率よく解いてしまった、ということになります。
厄介なのは、この間違いに気づくのが遅れることです。以前なら、五つのツールを入れる前に予算と時間の壁があり、その壁の前で「何のために入れるのか」が問われました。今はその壁がなく、しかも導入後は「作業時間が減った」という分かりやすい成果が出るので、経営数字が動いていないことに目が向きにくい。診断が甘いまま走り、以前より速く、しかも気づくのが遅れる形で間違える。これがAI時代の新しい失敗の型だと思います。
Section 04PoCは成功したのに、会社は変わっていない
この失敗の型は、いま多くの会社で「AI PoCの乱立」という形で現れています。
ChatGPTの全社導入、AI議事録、AIエージェント、RAG、AI営業、AIマーケティング、社内検索、業務自動化。それぞれを単体で見れば合理的な取り組みです。しかし「どの経営課題を解くのか」「どのKPIを変えるのか」が曖昧なまま同時並行で走ると、PoCは成功したが会社は何も変わっていない、という状態に行き着きます。
訳者の岩瀬義昌氏が、2026年6月の講演資料「エンジニアリング戦略の作り方」で、この状況を架空のシナリオとして描いています。経営陣の号令で全社にAIコーディングのPoCが広がり、3か月後には17件、半年後には33件に増えた。しかし、ほぼすべてが本番運用に至らず、「成功とも失敗ともジャッジされることなく」、PoC完了と書かれた報告スライドだけが残った、という話です。
つくり話だと明示されていますが、AIコーディングを他のAI施策に置き換えれば、心当たりのある経営者は多いはずです。岩瀬氏はこの原因として、戦略が定められなかったこと、現状認識がないままとりあえずPoCで何かを作っていること、「やる・やらない」のトレードオフがないこと、現場定着が想定されておらず運用開始後のふりかえりもないことを挙げています。
これはラーソンの五つのステップの裏返しです。現状認識がないのは診断の欠落、トレードオフがないのは方針策定の欠落、定着とふりかえりがないのは運用の欠落。PoCが乱立するのは、実行のステップだけが安くなり、その前後のステップが置き去りにされているからだと思います。
Section 05診断、洗練、運用を経営の言葉に翻訳する
では、AI時代の経営はこのステップをどう使えばいいのでしょうか。特に重要な三つを、経営の言葉に置き換えてみます。
診断とは、経営課題を分解して本当のボトルネックを特定することです。「売上が伸びない」は課題ではなく症状で、リード数、商談化率、受注率、客単価、リピート率、生産性のどこが詰まっているかで、取るべき施策はまったく変わります。商談化率が低いなら営業AIより先に提案内容の見直しかもしれませんし、リード数が足りないなら手をつけるべきはマーケティングかもしれません。AIを入れるかどうかは、この分解の後に決まる話であって、前に決まる話ではありません。
洗練とは、最初から全社展開せず、小さく検証することです。営業AIを入れるなら、営業50人全員に配る前に、3〜5名で試す。見るのは「便利になったか」ではなく、提案作成時間、商談数、商談化率、受注率といった、診断で特定した数字が動いたかどうかです。動かなければ、ツールが悪いのではなく、診断が違っていた可能性を疑います。
ここには一つの逆説があります。AIによってプロトタイプやPoCのコスト自体が下がったのだから、「小さく試す」ことも以前よりはるかに安くなりました。全社展開のコストが下がったことばかりが注目されますが、小さく試すコストも同じだけ下がっています。だとすれば、AI時代ほど、小さく試してから広げるのが合理的になります。作れてしまうからこそ大きく作るのではなく、作れてしまうからこそ小さく作って確かめる、という順番です。
運用とは、成果が出たものを、業務フロー、データ、プロンプト、KPI、教育、権限設計に組み込み、継続的に使われる状態にすることです。AIツールは導入した瞬間ではなく、日々の業務の中で使われ続けて初めて経営成果につながります。ラーソンが運用を独立したステップとして置いているのは、良い方針が書かれても採用されずに終わることがあまりに多いからだと私は読みました。AI導入もまったく同じ構造にあります。
Section 06競争力は「実行速度」から「学習速度」へ
ここまでの話を一段抽象化すると、企業間の差がどこに生まれるかが変わってきている、ということになります。
これまで企業の差は「実行できるか」にありました。システムを作れる会社と作れない会社、LPを回せる会社と回せない会社、調査ができる会社とできない会社。AIはこの差を急速に縮めています。Howの部分はコモディティ化していき、実行力そのものは差別化要因ではなくなっていく。
差が移るのは「何を実行するか」です。経営やマネジメントの仕事も、Howを管理する力より、WhatとWhyを決める力に重心が移ります。何を解くのか、何をやらないのか、どこで小さく検証するのか。この判断の質が、実行の速さより先に成果を決めます。
そして、WhatとWhyを一発で当てられる経営者はいません。だとすれば競争力の正体は、正しい課題を定義し、小さく実行し、結果を見て、仮説を修正し、良いものだけを広げる、というサイクルをどれだけ速く回せるかになります。単純な実行速度ではなく、学習速度です。
AIはこのループ全体のコストを下げます。調査も、プロトタイプも、データ分析も、修正も安くなりました。だから「大量に施策を実行する企業」より、「仮説と検証を高速で回せる企業」のほうが強くなる。同じAIを使っていても、ループを回している会社と、施策を積み上げているだけの会社では、一年後に立っている場所がまったく違うはずです。
Section 07課題の特定から検証まで、一つの組織で回す
この考え方は、私たちEAPが自分たちの仕事をどう定義しているかにも直結しています。
EAPは、AIを導入すること、システムを作ること、マーケティング施策を実行すること自体を目的にしていません。まず事業構造、顧客、KPI、業務プロセス、ボトルネックを整理し、「今、本当に解くべき問題は何か」を定義する。その上で、AI、システム開発、マーケティング、業務改善のどれを使うかを選びます。手段は課題の後に決まる。順番が逆になった瞬間に、この記事で書いてきた失敗の型に入ります。
もう一つ、業界の構造についても考えていることがあります。従来、企業支援はコンサルティング会社が戦略を考え、SIerや制作会社が実装し、広告代理店が集客する、という機能分担で成り立っていました。実装コストが高かった時代には、この分業は合理的でした。
しかしAIで実装コストが下がり、「診断→仮説→実装→データ→戦略修正」のサイクルが速く回るようになると、分業の継ぎ目そのものがボトルネックになります。戦略を考える会社と実装する会社が分かれていると、実装で得たデータが戦略の修正に戻るまでに時間がかかり、学習速度が落ちる。戦略だけを考える会社、実装だけをする会社より、事業課題の特定から実行・検証までを一つの組織で高速に回せることの価値が上がっていく。私たちはそう考えています。
だからEAPは、戦略→実行→検証→改善までを一気通貫で、経営の伴走者として担う形を選んでいます。それが、正しい方向へ速く進むためのいちばん現実的な組み立てだと思うからです。
Section 08まとめ
AIによって、企業は以前より速く実行できるようになりました。だからこそ重要なのは、ただ速く動くことではありません。正しい課題を選び、小さく試し、結果から学び、良いものだけを広げること。
作れることと作るべきことは別物です。作れてしまう時代に、その区別をつけるのは実行力ではなく、診断と検証の力です。
AI時代の競争力は「実行速度」ではなく「学習速度」に移っていきます。
・Will Larson『エンジニアリング戦略の作り方』(オライリー・ジャパン、岩瀬義昌・岩瀬迪子訳)
・Richard Rumelt『良い戦略、悪い戦略』
・numashi(LayerX)「AIによってプロダクトマネジメントとMVPの重心が変わった話」note、2026年4月27日
・岩瀬義昌「エンジニアリング戦略の作り方 / Crafting Engineering Strategy」Forkwell Library、2026年6月14日(PoCの事例は資料内で架空のシナリオとして示されています)
